今日、8月9日は、長崎に原爆が投下された日・・・

焼き場に立つ少年(1945年長崎、原爆被災者) 一人の少年が、歯を食いしばってまっすぐ前を見てたっている、素足の足 ぼろぼろの服 背中には、すでに息絶えた小さな弟を背負っている 場所は、長崎の浦上川の川沿い 当時、原爆で亡くなった人を荼毘(だび)にしたのだが、あまりの多さに至る所で荼毘にされた その少年は、死んだ幼い弟を背負って順番を待っていたのである。12歳前後の少年が、背中に幼い弟の死体を背負って、それでも涙を見せずに、唇を血が出るくらいかみ締め、きっと前を見つめて直立不動の姿勢で、じっと荼毘の順番を待っている 撮影者は、故ジョー・オダネル 彼は、ホワイトハウスの専属カメラマンとして、戦後の歴代大統領の写真を撮影したカメラマンとして知られている 百の反戦の言葉より一つの事実 【以上、ブログ 「ちょっと古い車と戦車」より コピペ】この地球上から再び悲惨な状況を繰り返さないよう、核廃絶を訴えましょう・・・ 伯爵 広島、長崎に原爆投下 1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、広島市上空のB29爆撃機エノラ・ゲイ」からウラン型原子爆弾が投下された。高度約600メートルでさく裂した原子爆弾は、TNT火薬2万トン分の威力があるとされていたが、巨大なエネルギーは一瞬にして高温の熱線と放射線を発し、すさまじい爆風を巻き起こして通常爆弾とは比較にならない大きな被害をもたらした。爆心地から半径2キロ以内の地域は完全に焼き尽くされ、その周辺部も爆風によって家屋の大半が倒壊、広島市は一面の焼け野原となった。死者は爆発時の熱線やその後の火災による焼死のほか、爆風による圧死、残留放射線によって救護に従事した人が時間をおいて死亡するなど、被害は長期にわたって拡大した。正確な被害実態は明らかでないが、広島市は同年12月末までにおよそ14万人が死亡したと推定している。さらに、8月9日午前11時2分、B29爆撃機「ボックスカー」が長崎市プルトニウム型原爆を投下。死者は同年12月までに7万4000人と推定されている。米国は戦争終結を早めるために原爆投下に踏み切ったとしているが、広島、長崎の被爆者は今も後遺症に苦しめられており、その人たちにとっての戦争はいまだに終わっていない。【Copy&Paste from Yahoo】2008.6.18.の広島原爆ドーム・・・