ピアノ マン

最近ピアノ マンが伯爵を含めて何かと話題になりますね!
今朝のNHK-TVでは、ジャズピアニストの 本田竹広さんのドキュメントが放映されていました。氏は 51才の時 脳梗塞で半身不随になり 左手は完全に動かなくなったそうです。それでも始めは右手だけの演奏からスタート、ピアノを弾きたいという一心から リハビリに リハビリを重ねてとうとう左の手指も使っての演奏が出来るように! 今ではお客さんを集めてのコンサート公演もされているのが映しだされていました。そして本田さんは 「運命によって 生かされているので、人に恩返しをしたいがため・・・」と話しておられました。 「人生楽しく ガンバロ〜!」

夕方インターネットで新聞を読んでいたら、大阪のアイリン地区に ピアノで人生再起を賭ける ピアノマンの記事が載っていました。 コピーしたので時間が有ったらどうぞ!

【記事】
大阪市西成区の日雇い労働者の街・あいりん地区(釜ケ崎)で、阪神大震災がきっかけに路上生活を送っていた合田(ごうだ)清さん(54)=同市天王寺区=が、路上で始めたバッハの演奏から広がった出会いを糧に、約6年間のホームレス生活に終止符を打った。「あいりんのピアノマン」は、14日のコンサートから、音楽家として再起を目指す。
 「素晴らしい音。いつまでも路上生活を続けていてはダメよ」。5月下旬、あいりん地区近くの遊園地「フェスティバルゲート」で演奏していた合田さんに、名前も知らないファンの女性が声を掛けた。女性は資金援助を申し出て、合田さんはアパートを借り、路上生活から脱却した。
 6歳でピアノを始め、音大進学を目指したこともあった。関西学院大卒業後は神戸市内でピアノ教室を経営、演奏活動もしていた。ところが、95年の阪神大震災で教室が半壊。大阪府内に2度移転した教室には生徒が集まらず、約5年前に多額の負債を抱えて破産した。さらに49歳で初めて就職した楽器店も4カ月で解雇された。妻と離婚、友人にも見放され99年秋、釜ケ崎に流れ着いた。
 路上や公園で段ボールを敷いて寝る生活。寒さで歯がカチカチ震えた。賛美歌の伴奏で教会に住み込んだり、親しい女性の家に身を寄せたこともある。「人生のどん底だった」。だが、音楽が力を与えた。
 昨年秋、教会のキーボードを借りてあいりん地区の通称「三角公園」でバッハの演奏を始めた。純粋に音楽を受け入れてくれる労働者の姿に、逆に胸を打たれた。「バッハには崇高さを感じる。もっと弾きたい」と、意欲がわいてきた。
 今年1月、偶然通りかかったフェスティバルゲート内のスタジオカフェ「COCOROOM」でピアノを弾かせてもらうと、店主がイベント出演を依頼。その後数回の出演で手応えを感じ、コンサート活動に踏み切った。合田さんは「昔はちょっと才能があると思っていい気になっていた。今は名誉欲も物欲も薄れ、手にはピアノを弾く力だけが残った。あるがままの心からあふれ出る音楽に何かを感じてくれれば」と話す。
 14日のコンサートは同市天王寺区下寺町1の應典院で午後7時半開演。「主よ人の望みよ喜びよ」「G線上のアリア」などバッハ30曲を演奏する。2000円。問い合わせはCOCOROOM(06・6636・1612)。【田中龍士】
毎日新聞) - 6月11日17時20分更新

インスブルック の朝 (秋ではなく 春四月初旬の景色です!)







郊外の早朝









インスブルック郊外の朝






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