9月22日(月)、政界と スポーツ界に変化が・・・

野球界: 巨人が対広島で勝ち、19年ぶりの11連勝!追い上げ優勝の可能性十分? 角界: 横綱4敗、朝青龍(27)の時代が終わるのか・・・? 政界: 自民党総裁戦で 麻生太郎氏が第23代総裁に選出された。庶民は期待しますョ~! 【自民総裁選】「偉大なる楽天家」麻生氏、超プラス思考 9月22日22時22分配信 産経新聞 「偉大なる楽天家」と呼ばれる麻生太郎氏が22日、第23代自民党総裁に選出された。麻生氏が「天命」とする総裁の座。そこにのぼりつめるまでの道程はどんなものだったのか...。(大谷次郎) ■華麗なる閨閥(けいばつ) 「日本の底力」−。麻生氏が掲げる政権公約の題名は、麻生氏が最も影響を受けた祖父の吉田茂元首相から、ことあるごとに「日本人のエネルギーはとてつもないものだ。日本は必ず再生する。日本人には底力がある」と言い聞かされた言葉からとったものだ。麻生氏は政界きっての名門の出身だ。吉田元首相だけでなく、明治維新の立役者である大久保利通は高祖父。千賀子夫人は鈴木善幸元首相の三女。安倍晋三宮沢喜一橋本龍太郎の歴代首相も遠い親戚(しんせき)にあたる。「麻生氏の系図をたどれば近現代史の本が書ける」(周辺)ほどだ。麻生氏自身は学習院大を卒業後、米国スタンフォード大大学院などに留学。32歳の若さで麻生セメントの社長に就任。日本青年会議所会頭を務め、昭和54年に衆院選で初当選した。51年のモントリオール五輪クレー射撃で出場した経験もある。■度重なる挫折 エリートコースを駆け上ってきたとみられがちだが、挫折も味わった。3回目の当選を目指した昭和58年12月の衆院選で2678票差で落選した。千賀子夫人と結婚してわずか1カ月半のことだった。よく麻生氏は「結婚したらいきなり無職。おれは何をやっているんだ...と相当落ち込んだ」と当時を振り返っていた。麻生氏が立ち直るきっかけは故田中角栄元首相のひと言だった。たまたま出くわした田中氏から「落選したといっても8万票とった。すべて変えるのではなく、8万分の2678を変えればいい。ゴルフでもしたらどうだ」となぐさめられたのだ。「30分の1か...」と思うと、なぜか気楽な気持ちになり、助言通りにゴルフを始めた。そして61年の衆院選で返り咲く。趣味を尋ねられると「ゴルフ」と答えるようになっていた。■うまい冷や飯 「冷や飯のうまい食べ方ならおれに聞け」 麻生氏が自嘲(じちょう)気味に語る言葉だ。旧宮沢派(宏池会)の跡目をめぐり加藤紘一元幹事長と対立し、派閥を追われた。不(ふ)遜(そん)な態度も手伝って、旧宮沢・旧竹下派連合ににらまれ、平成8年に経済企画庁長官で初入閣したのは同期議員の中で最後尾だった。そんな麻生氏の転機は平成13年の総裁選出馬。小泉純一郎元首相の旋風の前にわずか31票しか獲得できず、惨敗した。だが、小泉氏は総裁選直後に麻生氏を政調会長に抜擢(ばってき)。以降、総務相、外相などで重用した。そして、3度目の挑戦となった昨年9月の総裁選。福田康夫首相との一騎打ちで、麻生派を除く党内8派閥は福田支持で結束。有力視された麻生氏は「麻生包囲網」で一気に反主流派に追いやられた。再び冷や飯生活...。だが麻生氏は「男は何度でも勝負する」とゼロからの再出発を公言。「無役」を充電期間と位置付け、全国行脚を始めた。約10カ月間に161カ所で講演した。その結果、4度目の挑戦となった今回の総裁選では地方票で圧倒的な強さを発揮した。麻生氏は総裁選当日の22日朝、記者団に「これまでの10カ月間の積み重ねが大きかったという感じがする」と語った。■偉大なる楽天家 麻生氏は「偉大なる楽天家」と呼ばれる。どんな逆境も常にプラス思考でモノを考え、行動するからだ。「My name is Taro, Aso Taro!」 麻生氏は総裁選告示前、どうしても見たかったという映画「007/カジノロワイヤル」のDVDを鑑賞。映画の最後でジェームス・ボンドが口にする決めせりふを自らの名前に置き換えると、「く~っ、カッコええ」とはにかんだ。逆境を冷静に乗り越え、任務を成し遂げるボンドに自分をダブらせたかったようだ。「偉大なる楽天家」が日本のリーダーとなる。映画ではない現実の政界で真価を問われる。「麻生太郎に与えられた天命だと思っている」 新総裁に選ばれた直後のあいさつで深々と頭を下げた。この日9月22日はくしくも、吉田元首相の誕生日だった。【以上、Yahoo-News から コピペ】 家庭菜園の隅に咲く、ユリ・・・ 家庭菜園の隅に咲く、シソの花・・・ 家庭菜園の隅に咲く、ラッパ花・・・ 家庭菜園の隅に咲く、カンナ・・・ Photo by Kanji. Sep. 22(M). 2008. at farm-garden in Kamakura.